其の一 「和道流の起源と名空会」
日本の空手道は、沖縄を発祥の地としている。 沖縄には古来より闘争術があったが、中国国内において唐の時代に発生し、明代末期において体系づけられていった中国拳法が沖縄との交易に伴い、文官・武官が入ってくることにより、それらの拳法が沖縄古来のものと合流し、研究・改良されて今日の空手の源流を形成していったと思われる。 この術は「手」と呼ばれていたが発達するにつれその地方の地名をとり「那覇手」、「首里手」、「泊手」と呼ばれるようになり、それらを総称して「唐手」と呼ばれていたようである。
明治以後、沖縄と日本本土の交流が盛んになり、人事の往来も頻繁になる中で、沖縄においては学校体育の正課となる迄に社会的に認められて来た空手を、日本本土へ紹介し、普及発展に努力をする空手家が出てきた。 その人達は那覇手の大家東恩納寛量先生の門人で剛柔流の始祖宮城長順先生であり、拳聖糸州安恒先生及び東恩納寛量先生の門人となり、両師の系統を受け継ぎ糸東流の始祖となった摩文仁拳和先生であった。 そして糸州安恒先生・安里安垣先生の首里手の門人船越義珍先生が1921年(大正10年)54歳の時、第11回日本古武道展覧会ではじめて日本へ空手を紹介することになった。 翌1922年(大正11年)6月船越義珍先生が講道館ではじめて空手の形を演武し、当時の日本武道界の最高指導者・嘉納治五郎師範が日本の正当な武道として認めるところとなり、日本での近代空手道の夜明けとなった。 この年7月に入って、船越義珍先生が明正塾講堂において空手を教えるようになり、9月頃より和道流の流祖大塚博紀最高師範が稽古に加わり、自己の修めた来神道揚心流の柔術拳法に沖縄空手術を融合させ「和道流空手道」を完成させた。
1934年(昭和9年)4月、大塚博紀最高師範は「大日本空手振興倶楽部」の代表として、日本古武道流祖祭並びに古武道形奉納大会に出場した。 またこの年神楽坂に道場を開き、1937年(昭和12年)京都武徳殿での日本古武道流祖祭に「神州和道流空手術」の師範として出場した。
1938年(昭和13年)3月には「大日本空手道振興倶楽部」は発足し、2年後の1940年(昭和15年)2月5日、紀元2600年奉祝第44回武徳祭には「和道流空手」と名付けて披露されたが、やがて戦争となり、空手の研究は益々盛んになって来た。 そして敗戦となったが、大塚最高師範はいちはやく指導をはじめ、明治大学・日本大学・東京大学・東京農業大学などの各大学に広めていき、1954年(昭和29年)には「全日本空手道連盟」を改め、その後1956年4月「和道会」とした。
名空会を設立した成田春男初代会長は、九州熊本の地において、中学生より空手道の道に入り中学校・高校と6年間を過ごした。
昭和30年名城大学理工学部入学と同時に空手道部に入部、和道流空手道の道に入った。 以来、流祖大塚博紀最高師範を師とし、流祖の教えを受け継ぎ、空手道の発展に努め、昭和37年名古屋市内に全日本空手道連盟和道会の支部として「名空会」を設立した。 その時、流祖には数度にわたって御来名を戴き、名空会各支部師範に直接御指導を戴く機会を設けるなどし、名空会の基礎を固めてきた。
昭和59年12月12日、48歳の若さで逝去されたが、現在、渡辺勝己二代目会長のもと、空手道を通しての青少年の育成に取り組んでいる。
〔 文責 浅野 進 〕
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